見えない儀式
福島加津也
学生の頃、建築史の授業で最初に見たのは統治者の力を象徴するピラミッドや古墳だった。そこで行われたさまざまな祝祭は、建築における初源的な機能なのだ。柳田国男によるハレとケという言葉は、非日常の儀式と日常の生活を明確に分ける日本人の世界観から見出されたという。そうすると祝祭はハレに属し、本特集は共同体の祭りのような非日常の儀式に関する論考が主体となるのだろう。しかし、編集者から私への依頼は、ケに属する家で行われる祝祭について書いて欲しい、というものであった。とてもむずかしそうなテーマだが、私の建築家としての興味につながる気がしている。
日本の民家の「黒い戸」
私たちの事務所では、デザインとリサーチという二つの活動を並行して行っている。そのなかで、日本の民家について書かれた最初の本といわれている今和次郎の『日本の民家』¹に着目し、そこに掲載されている家々を現代に再訪するリサーチに参加する機会に恵まれた。その素晴らしい成果は、すでに書籍にまとめられている²。内容はそれに譲るとして、ここでは現地調査のときに見た不思議な「黒い戸」に注目したい。
その黒い戸は、東西という地域や山村漁村という集落構造に関わらず、多くの民家に存在した。表面は黒く光沢があり、装飾がほとんど施されていない、広間にある収納のための戸であった(写真1)。最初はただの古い戸と思っていたが、同じような戸をほかの民家でも次々に目にすると、その地域を超えてある理由を知りたくなってしまった。そうして、私たちの事務所は黒い戸のリサーチを行うことになった³。
儀式と「エクスタシー」
黒い戸について、その歴史や機能を直接的に扱った既往研究をみつけることができなかった。そのため、建築学や民俗学の儀式の既往研究を調べてみると、いくつかの興味深い論考がみつかった。建築評論家のクリス・フォセットは、「建てるために生きるのか、それとも生きるために建てるのか」⁴で、住空間にある儀式について建築学と民俗学を横断するような言説を残している。フォセットは、儀式が日常の内と外を移動するための形式であり、宗教神を祀る神棚などとして民家の中にあったことを指摘している。そして、その儀式のときに変化する心身状態を「エクスタシー」と呼び、「役に立つ」という機能論ではなく「人間の根源的な欲求」という本質論で説明している。いささか奇抜な主張のように聞こえるが、エクスタシーをある種の緊張感ととらえると、住空間には安息だけでなく高揚も必要であることが実感できるだろう。
次に、黒い戸がある広間と戸を開けた先にある収納(納戸)の儀式の既往研究を調べてみると、広間と納戸で行われる儀式の時期には非日常と日常が、その主体には共同体と家族があることが浮かび上がってきた。これらをまとめてみると下記のようになる。
民家の儀式
広間 共同体の儀式 農耕神や祖先神の祭り 非日常
共同体の儀式 宗教神を祀る神棚や祖先神を祀る仏壇 日常
納戸 家族の儀式 死や生の祀りの就寝(性交)や収納 日常
広間で行われる儀式は機能的に他者にも「見える儀式」であり、納戸で行われる儀式は道徳的に隠さなければならない家族にも「見えない儀式」である。フォセットによると、儀式から得られるエクスタシーは住空間の本質であるという。しかし、広間で行われる見える儀式がエクスタシーを生み出すことはわかるが、納戸で行われる見えない儀式とエクスタシーの関係はまだわからない。
無意識的なエクスタシー
民家の広間と納戸の儀式の関係を実際に検討するために、2018年から日本各地で現地調査を行った。この調査でもいくつかの黒い戸が見つかり、広間と納戸の間に設けられる傾向が確認された。その広間はきれいに整理されていて、納戸はものが雑然としていた。そして、黒い戸は納戸の見えない儀式を暗示するように広間に面してあるように見えた(写真2、図1)。ではなぜ、隠した儀式を暗示しなければならないのだろうか。
ここで、民家には見える儀式によるエクスタシーとは異なるエクスタシーが必要である、という仮説を立ててみよう。共同体の祭りのような見える儀式によるエクスタシーは、意識することができる。それは住空間に強い緊張感をもたらして短期間に作用する。黒い戸のような見えない儀式によるエクスタシーは、意識することがむずかしい。しかし、それを暗示する黒い戸によって、住空間に弱い緊張感をもたらして長期間に作用する。例えば、丁寧に清掃された空間では人が自然に静かになるように。実際に調査した納戸では、すでに儀式が行われていなかった。それにもかかわらず、広間には黒い戸によって今なお弱い緊張感がもたらされているような気がした。
先述の仮説から得られた、民家には意識的と無意識的という2つのエクスタシーがあり、緊張感の強弱と長短をていねいに調整することによって、住空間の多様さと豊かさを手にしているという推論は、まだまだおぼつかないが少しは面白いものになっただろうか。
現代の住宅の儀式
民俗学者である高取正男は、『民族のこころ』⁵において日本の信仰が複数の神が共存する重層信仰であるとしている。それは公的と私的に分かれ、共同体に認められた公的な神に対して、私的な神は決して表に立つことなく、生活に密着しながらさまざまに姿を変えて民家の中に潜み、それでありながら公的なものを規制する。民家の見えない儀式は、私的な神を祀るためのものなのだろう。そして、このような私的な神が現代の住宅に潜み続けている可能性に言及している。
前述の論考で、フォセットは「野武士の世代」と呼ばれた1970年代の日本の建築家たちが、さまざまなエクスタシーを家の中に取り込もうとしていたことも指摘している。それは見える儀式による意識的なエクスタシーであった。見えない儀式による無意識のエクスタシーは、これまで注目されることがほとんどなかっただろう。見えない儀式は、家にとって隠さなければならない異物である。それは、非日常の儀式であるハレでも、日常の生活であるケでもない。少し強い表現となるが、ケガレという言葉がしっくりくる。黒い戸は、住空間とケガレの境界線上にある。
近代の住宅は、このような儀式を外へ排除してきた。それでは、現代の住宅ではどうあるべきであろうか。確かに、かつての共同体とは異なる現代社会において、住宅の中に祭りのような見える儀式を取り入れることは難しい。しかし、黒い戸のような見えない儀式の暗示は、儀式自体がなくなっても機能させることができる。それは、現代の住宅にとって有効なデザインの手段になるだろう。
注
1.今和次郎『日本の民家』鈴木書店(1922)
2.瀝青会『今和次郎 日本の民家再訪』平凡社(2012)
3.住総研2018年度研究助成
「日本の住空間における儀式性の研究」(2018)
4.クリス・フォセット『「建てるために生きるのか、それとも生きるために建てるのか」日本の現代住宅1970年代』A.D.A. EDITA Tokyo(1978)
5.高取正男『民族のこころ』朝日新聞社(1972)
建築雑誌2021年9月号 祝祭のゆくえ より